――誰だって、神になりたいとは思うでしょ?
私だって十九になるこの年まで、勉強はしてきたつもりだ。世界の理、人体の神秘、医学、心理学、物理学。女性という不利な立場でもなんとか立ち回ってきた。でも、できないことだってある。
その日、私は黒いカーテンで閉め切った部屋の中で、いつものごとく本を呼んでいた。経済学について書かれた入門書みたいなもので、初めて齧り付くには丁度いいタイプの本だった。
「ファーぅストちゃん」
――こんこんとドアがノックされた後、若い声でそう尋ねられた。私が内側から鍵を開けると、外から銀髪の女性が入ってくる。この家で一緒に生活している女主人のソフィアさんだ。二十四歳で、一応独身。
「あら、今日もお勉強? お勉強もいいけど運動もしなきゃダメよ?」
ソフィアさんは手に持っていたパン入りのカゴをテーブルに置き、閉め切っていた窓をガラガラと開け始めた。涼しく心地よい風が入り込んでくる。だが、あまり嬉しくはない。陽の光が苦手なのだ。狭い空間だけが私が安心できる場所なのだ。
「あぁ、いいですよソフィアさん。僕ってお日様に当たると気分が悪くなるんです」私はそう言って彼女の手を止めようとする。
「私はお化けを家に住ませた覚えはないわよ。それに換気しないと病気になっちゃうわよ」
彼女は取留めのないようなふんわりした笑顔で、私の頭に手を置き撫で回してくる。彼女に言われると嫌といえなくなってしまう。
「そうだ、今度の貴族のパーティーにお呼ばれしちゃったの。貴女の分の招待状もあるから、今度行きましょう? 似合う服も買ってあげるわ。いつもの男装じゃ変でしょ? 可愛い服にしてあげる」
彼女は優しい目で見つめながら、やわらかな声で尋ねて来た。彼女の勢いに気圧されて思わず首を縦に振ってしまう。本当は外に出るだけで恥ずかしいのに。
「じゃあ決まり! ありがとー。本当は断られたらどーしよーって考えてたの。今日は美味しいもの作ってあげるわ」
彼女の唇がふっと私のおでこの密着する。そして次に彼女の胸が私の顔に押し当てられる。彼女の暖かい身体が私を包み込む。
「……好きですよ。ソフィアさん」
彼女の汗ばんだベトベトの肌を、舌でそっと舐める。彼女のしょっぱい汗がなによりも美味しい。これが、これだけが、いつまでもあればいいのに。
「ふふ、可愛い妹ちゃんね。いつかお姉ちゃんって呼んでね」
彼女は一度だけ私をぎゅっと抱き締めた後、すぐさまウキウキと部屋の外へ出ていった。
私だって本当は彼女の事をお姉ちゃんって言いたい。でも、何故だか気が引けてしまう。
今から九年前の事。私は十歳、彼女はまだ十五歳だった。その日の夜はひどい嵐だったらしい。らしい、と言うのは私がその事を覚えていないからだ。いや、そのことだけではない。私はその日以前の記憶がぽっかりと抜けていた。覚えていたのは自分の年齢と、ファウストと言う名前だけ。それが自分の名前なのかそれとも他人のなのかはわからない。
私はこの家の近くにあった大きな杉の木の下で倒れていたらしい。それを見つけたのがソフィア姉さんだった。気が付くと私は以前の記憶がない状態で、この家のベッドにいた。彼女は私の為にカボチャスープを作ってくれていた。とろとろにとろけた温かいスープが、私の凍えた身体を心から溶かしてくれた。
「貴女、名前は? どこから来たの?」
「名前……ファウスト」
「そうファウストちゃんね。私はソフィア。よろしくねファウストちゃん」
それが彼女との最初の会話だった。それから今日に至るまでずっと彼女に世話をしてもらっていた。彼女は資産家の娘だったらしく、私を幼い妹のように愛してくれた。学費も出してくれたし、私の為になんでもしてくれた。まるで本当の姉のようにも思えた。
でも私は未だにお姉ちゃんと言えずにいる。お姉ちゃんと言ってしまうと、もう元の記憶が手に入らないような気がしたからだ。私はまだ昔の自分を知りたがっている。言ってしまえば楽になれるのかもしれない。だけど本物の妹になったら、今まで以上に彼女に迷惑を掛けてしまうだろう。彼女から離れられないかもしれない。だから、私はまだ言えずにいるのだ。
「いつか、いつか、今までの分、絶対返すからね。お姉ちゃん」
私はそう呟いた後、窓をカーテンで閉め切ってから、彼女が置いていったパンを食べ始めた。
深い夜が来た。木も草も風も空気も、全て寝静まっている。
心理学の本を漁る。記憶を元に戻すにはこれが一番だと考えていた。精神を解き明かせば記憶に関する何かがつかめるんじゃないか、そう思っていたのだ。
「……これじゃないなぁ」
どうもしっくり来ない本が多かった。精神の在り処がどうとか魂の存在など、今の私にとってはどうでもいいことしか載っていなかったのだ。だいたい肝心なところが後回しで、真理が書かれている部分なんてほんの僅かだ。結局売るために作っているだけではないのか。
「ふざけやがって。僕を舐めているのか!」
バタンッ、と本を床に叩きつける。その時の衝撃で近くに積んであった本の山が崩れだしてしまった。ガタガタと地面に撒き散らされる冊子達。部屋中に埃が舞い散った。
「ったく、掃除するの面倒くさいんだぞ……ん」
重なりあった本の下から一冊の分厚い書籍を見つける。『ソロモンの鍵』と書かれている。ソロモンの鍵と言えばかの有名なソロモン王が……いや長くなるのでやめよう。
「こんなモノ持ってたっけ。ソフィアさんのモノじゃないだろうし……読んでみるか」
近くに有った椅子に腰掛け、表紙に手を掛ける。中身は大したことのない、悪魔の召喚方法が書かれた至って冒涜的な書物だ。だが、私はそれに対して多大な興味を持った。自分でも博識だと思う私だが、魔術と言う物には全く手を触れたことがなかったのだ。魔女狩りが横行しているが、少しぐらいなら大して問題にもならないだろう。
それに現在は科学が発展する時代だ。悪魔なんて非科学的な物を誰が信じようか。最近ではコペルニクスとか言う科学者が地動説なんて物を唱えだしたぐらいだ。不本意だが科学の進歩の為なら礎となっても構わない。
「――待ってよ」
私はハッと気が付く。もし悪魔の召喚に成功してしまったら、私はどうなるのだろうか? 悪魔の中には私達に悪影響を及ぼすだけの者もいると言う。お姉ちゃんに危害が行くのだけは避けたい。私だってまだお姉ちゃんに借りを返していない。そんな状態で悪魔なんて呼び出してしまっては――。
「ファウストちゃーん。起きてるー?」
ドアの向こうからそう尋ねられた。私は咄嗟に「はいっていいよ」と返事をする。『ソロモンの鍵』を本の山へ投げ捨て、先ほど読んでいた心理学の教科書を手に取る。
「あらあら、こんなに崩しちゃって。お薬まだ飲んでないわよね」
ドアの隙間からソフィアさんが覗きこんでくる。お薬とは頭痛薬のことだ。毎日就寝前と起床後すぐに飲んでいる。これを飲まないと一日中頭痛に苦しめられてしまうのだ。それが記憶喪失と関係しているのかは知らない。ただ、その薬があまり美味しくないということだけはわかる。錬金術さながらの製法で作ったであろうその液体は緑色をしていた。
「うぅ、でも頭痛と比べたら飲めるから……」
一気に口に含むと、魚の腐ったような味が口の中に広がった。物凄く気持ちが悪い。私は口元を抑えてごくんっと一気に飲み込み、そのまま水筒の水を喉に流し込んだ。
「よしよし、いいこいいこ」
ソフィアさんが私の頭を撫で回す。褒められているような気がして嬉しい。この人の前ではいつまでも子供のままな気がする。だから、ずっと一緒にいたい。
「ねぇ、ソフィアさんは私がいなくなったらどうする?」
思い切って彼女にそう質問してみた。彼女の目が一瞬鋭くなったように見えた。だがすぐさまいつもの優しい目に戻って、私の頭を撫で回し続ける。
「そうね、私だったら泣いて死んじゃうかもね」
彼女の口から出てきた言葉がそれだった。喜ばしい半面悲しくもある。お姉ちゃんが私なんかの為に命を投げ出すなんて、そんな事させたくない。
「でもね、それで貴女が記憶を取り戻せるって言うなら、お姉ちゃん応援しちゃうかも」
そう言うとお姉ちゃんはぐわっと顔を近づけて、私の唇に自身の唇を触れさせた。彼女の舌が私の口の中をなぞるように蹂躙する。彼女の唾液がどんどん私の喉へと送られていく。背徳的な快感が私の身体を突き抜けていく。
女性同士なのに、こんなやらしいことをしていいのだろうか。いや、いい。性別なんぞ生物の区分けにすぎない。愛とは全ての人類が平等に育み合うものなのだ。そんな絶対的なものに、垣根なんていらない。彼女と一緒に入られるなら、神にだって刃を向けよう。
「……ぷはぁ。……明日はパーティー用の服を買いに行きましょう? 可愛いのがあるといいのだけれど。じゃあおやすみなさい。妹ちゃん」
お姉ちゃんが部屋から出ていく。私は決心していた。お姉ちゃんと一緒にいるために、悪魔を召喚する。誰にも渡しはしない。私の、僕だけの、お姉ちゃんにする。
本の山を片付けて、部屋の中心にチョークで魔法陣を書く。東西南北に鶏の血が入った瓶を置き、中央に悪魔が好きと呼ばれるワインを設置する。これで上手く行くかはわからない。だが、やってみる価値はあるのかもしれない。
「――地に堕ちたものよ。我に答えよ」
私はあの本に書かれてあった呪文を唱えだす。この魔法陣が何を呼び出すモノかはわからない。ただ何となく形はわかっていた。私の腕が、足が、頭が、心が覚えていたのだ。
「――我が問に答えよ」
「――我に答えよ」
「――地に堕ちたものよ」
「――汚れた翼を持つ者よ」
「――闇に紛れし者よ」
「――かつては崇められていた者よ」
「――罪を着せられた者よ」
「――我に力を貸せ」
「――我の願いを聞き届けよ」
何度も、何度も、呪文を唱える。だが、魔法陣はぴくりともしない。……騙されたようだ。それもそうだ、悪魔などいないのだ。群衆が神として崇めているモノはただのまやかしに過ぎないのだ。
私は肩を落としながら、近くにあった雑巾で魔法陣を消そうと手を掛けた。
――それは突然光り出した。魔法陣はぽっかりと開いた深い穴に変わる。深い深い闇の中へ私は堕ちていく。延々と底の見えない世界。それが地獄なのかはわからなかった。
「――クスクス、ファウスト」どこから私を呼ぶ声がする。
「誰? 悪魔? 僕を笑わないで」
辺りを見回しながらそう叫ぶが、声の主はどこにも見当たらない。
「クスクス、あたしはですね。そう、メフィスト、メフィストフェレスとでも言いましょうかね」声の主がそう名乗る。
メフィストフェレス。光を愛さざる者。ここドイツでも有名な悪魔だ。堕天使かそれとも元から悪魔だったのかは定かではない。元々はあのミカエルやルシファー等に並ぶ存在だったとも言われるが、それすらも定かではない。
「それでですねぇ、ファウストさん。クスクス」
何やら笑いが止まらないようだ。先ほどから妙な笑い声をあげている。
「いや失礼、こういうの慣れてないですよねぇ。クスクス。ルシファー姉さんやゼビュートの奴はこういうの慣れてるんでしょうけど。クスクス。あとミカエル姉さんもかな。蛇の奴は、あいつは人前に出ないか」
さっきから独り言が多いやつだ。さっさと進めてくれないだろうか。
「貴女はどこにいるのさ! 姿を表せ!」
「いえいえ、貴女のすぐ側にいますよ」
「――どこだ!」
「そりゃあ、ほら、貴女はあたしですから。クスクス」
突然私の目の前に鏡が出現する。そこに映っていたのはいつもの短い白髪の私、なのだろうか? いや、これは私であり、メフィストフェレスだった。
「契約内容は、まぁ好きにと言うことで。では一応意思の確認の方を」
「意思? 意思ってさ」
「あたしだって好きでやってるわけじゃない、って言ったら嘘になるけど。まぁ貴女が自分の記憶を取り戻したいっていうなら、好きにすればいい。でももしあたしが貴女の期待に添えられない場合は、その時はご自由に」
言っていることがさっぱりわからない。この女は何が言いたいのだろう。
「まぁ、貴女と私で仲良くやって行きましょう。それこそあたしが出てきた理由がないんだから。でも間違っても神になろうなんて思わないことですねぇ。神なんて、存在しないんだから」
闇しかないこの世界に光が広がり始めた。どんどんと視界が薄れていく。意識がなくなっていくのがわかった。一瞬だけ、光の向こうにお姉ちゃんが見えた。
どしんっ、とベッドからずり落ちた。地面に叩きつけられ、意識を取り戻す。小鳥のさえずりが聞こえる。もう朝のようだ。体の節々が痛む。
体を起こして周囲を確認する。魔法陣もそのまま残っているし、特に変わった様子はない。どうやら夢だったようだ。
「いたた、酷い夢だなぁ」
「ちょっとファウストちゃん。今の音何? ベッドから落ちたの?」
バタンッ、と扉が開かれる。ソフィアさんが私に近寄り、手を差し伸べてくれた。彼女の手を掴んでひょいっと立ち上がる。いつものお姉ちゃんの顔が見える。
が、お姉ちゃんの表情はいつもとは違った。なにか疑問を浮かべているようにもみえる。いったいなんだろうか。
「まさか……いや、染めた?」
お姉ちゃんがふっと笑いながらそう質問してきた。一瞬何を言っているのかわからなかったが、向かい側の壁に設置してあった鏡を見たお陰でだいたいのことは飲み込めた。
「……はぁっ!?」
鏡に近づいて覗きこむ。髪が薄っすらと黒く染まっていたのだ。いやまさか、と思い鏡に映った顔を見る。そこにあったのは私の顔、だけではない。薄っすらとメフィストフェレスの顔が映っていたのだ。
「では、仲良くしましょう。我が心の友、ってやつかな」
私とメフィストフェレスの右目がウインクをした。私は思わず口をぽかんと開けることしか出来なかった。
「うっ、め、ファウストちゃん? ファウストちゃんったら――」
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普通につづきが読みたい
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